感染と誘惑

最近はもっぱら自分の論文に直結する御本ばかりを読んでいて、なかなか他へと手を伸ばす余裕がないのが悲しい。


今は幸か不幸か「通学途中の読書」をする環境にないので(ハワイでのHONDA250cc生活を経てエコちゃりんこ生活へと回帰)、お風呂が唯一の余暇的読書タイムなのであります。


のぼせそうになる身体と読み進めたい気持ちと葛藤しつつ、濡れた手でちまちまとページをめくり、やっと終わったこの2冊。(WARNING!!丁寧なレビューではなく備忘録なのでごめんねー。)


大澤真幸THINKING「O」第8号


流行りの正義論が気になって…という流れで読んだわけでもなく、宮台の言葉を引き出しつつ繰りひろげられる真幸マジック(彼の、まるで動物園の熊のように教壇の端から端まで何百往復しながらに語られる講義をほえーーっと聞いていた私が勝手に名付けた用語)が健在なことを確認して勝手に安堵。つまり「正義論→感染(ミメーシス)論」もまた「他者の目=第三者の審級」論へと回収される。ただ人類学だろうと経済学だろうと心理学だろうと「利己」あるいは「利他」という枠組みに私自身が懐疑的なので(それは「純粋贈与」が存在しうるのか、という問いに通じる)、キリスト的存在を認めることで行為の源泉(=まったく素朴なもの)にアプローチするという手法にも(特に今回は)なかなか馴染めず。


癒しとイヤラシ エロスの文化人類学(双書Zero)


その後にこちらを読むと、上記で論じられていた感染(ミメーシス)というのがいかに、いわゆる西洋的自我を基盤とした概念であるかがよくわかる。「カリスマへの感化」を例に上記で用いられる感染の概念とはつまり「あなたと私は決して交わらないこと」を出発点としている。こうしたIとYOUとTHEYからなる上記世界とは異なり、こちらの「エロス」「誘惑」の関係性は、あなたと私の境界をゆるがしたり/溶解したり/止揚したりする。主―客が転倒し続けることでIやYOUが実に曖昧な存在性を帯びるのみならず、根源的な意味においてTHEYの存在は必要ではない、というのがこちらの図式だと理解。三項よりも二項で成立可能なほうが、シンプルで美しいと思えるが…ただ欲望の渦中にあってさえ第三者は存在し続ける、とキリスト者は反論するのだろうなあ。ううむ。