原風景

私のお風呂読書にはマンガも多い。


女の子ものがたり


クライマックスで泣かせる小説/マンガ/映画はよくあるが、何気ないひとつひとつのシーンを眺めているだけで涙がこぼれるような作品こそ、愛おしい。そんな作品に出会うたび、何が心の琴線に触れたんだろうと、考えていた。この本もそのひとつ。


私にとってそれは「原風景」かもしれないと、最近思うようになった。幼い頃に見ていた世界が淡い色となって眼前に広がるような。周りがどんな闇に包まれても、遥かかなたにきっと存在すると信じられるような。温かいような。胸をつくような。そんな景色。


こどもの頃に暮らしていた街は東京の一角にあったけれど、駅前にはアパートや雑居ビルが立ち並び、少し歩けば無機質な団地と田畑が交互するような土地だった。小学校には1000人規模の生徒が混沌と通い、サングラスをかけ竹刀を振り回す生活指導の教師や、真っ赤な口紅にあり得ないほどミニのスーツ姿でハイヒールをコツコツ言わせながら毎日やってくる女教師などがいた。


隣接する中学校では日常茶飯事のように警察沙汰が起きていた。私たちの耳に入る話題といえば「生徒に肋骨を折られた○○先生が救急車で運ばれたんだって」とか「○○先輩にこないだ会ったけどシンナーのやりすぎで歯がほとんどなかったよ」とか、そんなものだった。学校とはそういう場所なのだろうと、その頃は信じて疑わなかった。


友達はみんなカギっ子ばかりで、私がしょっちゅう遊びに行っていた家々もそうだった。狭いアパートの一室や団地の一角で私たちは毎日とりとめもなく遊んだ。家のおかあさんは大抵パートに出かけているか、家にいてもテレビを見ていたり、寝ていたり、無関心だったと思う。


今でも覚えているのは水商売をしていた友達のおかあさんだ。夕日が差し込む部屋のなか、私たちが遊んでいる横でおもむろに化粧を始める姿。それは幼心に、なんだか見てはいけないもののような気がして、直視できなかった。完璧に変身を終えたそのおかあさんはいつも、私たちににっこり微笑んで「早くおうちに帰りなさいね」と言い残し、ぱたんとドアを閉めて出ていく。後にはきつい香水の匂いだけが残った。


世の中に「階層」というものがあることを知ったのはその数年後、いわゆる新興住宅地に引っ越してからのことだ。みんなが一軒家に住み(それまで一軒家はお金持ちだけが住むものだと思っていた)、友達のおかあさんは専業主婦が多く、働いているおかあさんも学校の先生や企業勤めなど「立派な」お仕事をもっている人ばかり、おうちに遊びにいけば、手作りの美味しいおやつが待っていた。部屋に入れば綺麗なワンちゃんがじゃれつき、夏休みが明ければ海外旅行のお土産をもってくる子がたくさんいた。


そこでできた友達の、その家族の、その街全体の醸す空気が、馴染んできたものとあまりにも違って、戸惑った。けれどまだこどもだった私は、そんな違いにもいつしか適応し、そして、手紙を書くね!といってしばらく文通していた「東京のおともだち」とも、やがて疎遠になってしまった。


大人になるにつれ、いろんな運に恵まれたことで「社会のピラミッドの上のほう」にいる人びとに囲まれる機会が増えた。そのことが当然になったわけではなく、時々だけれど必ず感じる、違和感がまだ残っている。なんでわたしはここにいるんだろう?


「女の子ものがたり」を読んで、私に宿る細胞レベルの記憶を、全て束ねて、いつくしみたいと思った。