こんなときは

東北関東大震災から1週間。
こんな短い期間に、異なる土地で、大震災の黙祷を2回も捧げることになってしまうなんて、思ってもみなかった。


その午後、私はニュージーランドから帰国すべく成田に飛んでいた。日本上空付近まで来たとき、着陸ができないので上空で待機します、というアナウンスが入った。


乗務員が飴を配り、水を配り、安心してください大丈夫ですからねというアナウンスが過剰に流れ続けたので、「これはかなりマズい事態になっているんだろうな」と察した。


乗客をパニックに陥らせるわけにはいかないのだし、空の上の乗務員たちにも断片的な情報しか入っていないのだから仕方ないのだけれど、そのとき耳に入ってきたわずかな情報は、悪いイマジネーションをめぐらせるのに十分なものだった。


「広域で大地震/M8.8/成田空港封鎖」


実家が成田に近いので親の安否を案じたとともに、最悪の場合、自分はほとんど身寄りもないので1人になってしまうんだな、とぼんやり覚悟した。これからどう生きていこうか、とさえも。


飛行機はその後、関空緊急着陸し、空港は人びとで溢れた。慌てて充電した携帯から数十回発信し続けた電話でやっと親との連絡が取れて安堵したものの、テレビの映しだす被災地の惨状はとても日本のものとは思えず、息をのんだ。


それから一週間が過ぎた今でも、まるで鉛のようなものが自分の奥底に存在し続けてているような、そんな重苦しさがあることに気づいて、少し驚く。ただ遠くから、主に家族と友人の安否を気遣っているだけの立場にある私でさえも、だ。


そしてこの気分は多くの人びとが共有しているのではないかと思う。私のなかの鉛はおそらくかなりちっぽけな部類に入り、あの瞬間から、もっと大きな、ごろごろした鉛を抱え込んでしまった人がたくさんいるのだろう。


こんなときはどんな自分の言葉も空虚に響き、無力感に苛まれてしまう。周囲を見わたしても、ニュースの更新や支援活動についてなど実際的な情報は多く飛び交っていても、それ以外の内容でまとまった文章を書く人や、自分の感情を吐露する人が激減してしまった気がする。日本を覆う重たい沈黙を、肌で感じた。


その一方で、こうした困難に立ち向かう心理の結果として、「日本人」や「我々」を主語として、正義や理念を語る言説が増えた。けれどそれは「私」を主語として語られる言葉とは、性質を異にする。またそれは「私」の無力さを痛感していること、「私」が不安で寂しいこと、の裏返しかもしれない。


今のワタシは、大きな声で歌ったり、くだらないことで無邪気に笑ったり、誰かに寄り添ってぐっすり眠ったりしたい。


大義名分、とかではなくて、
「私」の言葉を、
他愛もない願望や、小さなワガママや、くだらない冗談を、奔放に言い合える、
そんな日常が、少しでも早く訪れますように。
私にも。あなたにも。