人類学の不可能性と人類の可能性

「大学で研究をしています」と自己紹介すると必ず「ご専門は?」と問われる。うーやっぱり聞かれちゃうのねと思いつつ、相手の顔色をうかがいつつ、「人類学です」と答える。そこで「なるほど」という反応を得られることなんて10回に1回も起こらないと思う。


たいていの場合、「オセアニア地域のことを...」「現地調査などして...」「文化や社会について...」と慌てて付け加える。言葉を補って初めて「ああそういう事ね」という表情をする人がぐんと増える。それでもきっと、彼らが思い描いた「そういうこと」と、実際に私がしていることとの間には大きなギャップがあるんだろうなと思いながらも、会話は次へと進んでいってしまう。私のなかの軽くもやもやした気分を取り残したままに。


そんな自分も大学に入るまでこの学問分野の存在すらよく知らなかったので、こうした世間一般の認知度については特に驚かない。けれどこれと同じような反応をアメリカで得たときは、さすがにこの状況は良くないなあ、と思った。人類学 =anthropologyなので、「人類」という察知可能な語を含む日本語とは異なり、言葉自体にまったく馴染みがないのかもしれない。


この状況も人類学が盛んなヨーロッパ諸国では異なるのか(イギリス、フランス、オランダ、ノルウェーあたりがとりあえず思いつく)、気になるところ。ノルウェーでは国の偉大な人物リストに人類学者の名が当然のごとく挙がると聞いた。


日本でも最近は[梅棹忠夫回顧展@みんぱく]がかなり盛況だったようで、人類学とはふだん無縁であろう多くの来場者が来ていたことに感心したし、私自身も新たな気づきがあり面白い展覧会だった。「文明」や「人類の未来」に対する時代の危惧感と呼応したこともあるが、やはり京都系知のカリスマの一人としての圧倒的な知名度を再認識。


ここでひよっこ人類学者として、「今こそ人類学という学問の認知度を上げなければ!」という使命感に駆られ、その可能性を謳いあげるのはひとつの方法かもしれないが、私はむしろその不可能性(orダークサイド©スターウォーズ)について冷徹に見極めていく事こそ、結果的に人類の可能性を開いていくのではないかと思う。


311震災後の語りのなかで活発になってきたのは、文明のほころびや歪みを直視しなければならないという自省や、人類の「発展観」に対する懐疑だった。


一方で科学が提示し続けるのは、人類の叡智が生みだす無限の可能性であり、それにはまず「科学/学問の可能性」を謳いあげることが先決だった。ネガティブな側面から目を背け、ポジティブな「成果」ばかりが強調されていくのは、その存在理由を対外的にアピールする上でやむを得ない戦略かもしれないが、結果的に失われたものは少なくない。


私の研究対象もそうだけれど、世界の「周縁」に生きる(とされる)人びとの生活や、制度をしなやかに受け止め自らのものとして飼いならす人びとの底力や、単純な論理や倫理では語り尽くせない人間社会の豊穣さ(それは単に美化されるのではなくイヤラしさ、狡さ、なども含めて)にここまで寄り添っていく学問なんて他に類を見ない。


そんな人類学が見せる様々な「オルタナティブな世界像(純粋にユートピア的ではなくて)」は、多くの説明不可能性を孕んでいて、人間の「わからなさ」がくっきりと浮かび上がってくる。それはひるがえって、「わかる」に満ちあふれキレイゴトで進もうとする権力や制度に対し、あらゆる角度から警鐘を鳴らすことができる...そう信じてやっているひよっこなのです。