ぺしゃんこからの復活と内省

相変わらず締め切りギリギリまでかかってしまう仕事の遅いひよっこのわたくし。徹夜で原稿を書きあげて送信ボタンをクリック、そこで仮眠したら起きられる自信がなかったので、そのままナチュラルハイの勢いにまかせて早朝出勤したある日。


オフィスに着いてしばらくしたら、数ヶ月前に投稿していた論文の査読コメントを着信したので読みはじめた。結果から言うと全体的に辛口(辛さ5段階の4くらい)で、あれも直せこれも書き足せと批判の集中砲火を浴び、打ちのめされてしばらく呆然とする。ぺしゃんこ、というかべっこべこにされたひよっこ


殴られたら快感を覚えるくらいのマゾっぷりが必要な業種だったかしらこの仕事…?と徹夜明けの回らない頭で考えつつ、で、どうしたらよいのですか?果たしてこれは数週間で書き直せるのですか?いっそのことリジェクトされたほうが楽だったのではありませんか?と、とりとめもない思いが駆け巡る。


すると数時間後、編集の先生方からのなぐさめ&救いの手の連絡があったので、書き直しの方針について相談させていただく。優しい人たちがいて良かった…捨てる神あれば拾う神あり…立て、立つんだひよっこ


結局はなんとか改稿しましょう、ということになり、がんばってみることに。そうやって落ち着いてから改めて査読結果を読み直してみると、2つあったうち1つの文章は、なんだか言葉の端々にネガティブなエネルギーが渦巻いていて、ああ私を打ちのめした原因はこれだったのか、と気付く。批判的なコメントを受けるのが初めてな訳もなく、どうして今回ここまでグッタリしたのか、自分でもよくわからなかったのだ。


なんていうか、ただポンと踏んでいるだけではなく、その後にかかとでグリグリと踏みにじっているような、そんな意図を感じてしまったのよね。


決してリップサービスではなく、自分の仕事が批判されることは大歓迎、と普段から思っている。それがひよっこレベルにあることのメリットだし、叱られず何も指摘してもらえなくなってしまったらそれこそ怖い。


けれど理不尽な、自分にはよくわからない悪意のようなもの、に対して、私はめっきり弱い。理不尽なのだから相手の方が悪い、気にするべきじゃない、と頭ではわかっていても、そういう負のエネルギーに当てられてしまうと、一気に弱ってしまって、回復に時間がかかる。へなへなと崩れ落ちる。


言葉を扱う仕事に携わる人たちは、それが持つ威力を熟知しているから、そしてそれを操る能力も持ち合わせているから、とても怖いと改めて思う。言葉の端々に、サブリミナル効果のように不可知なレベルで、諸々の感情をすべりこませてしまう。だから言葉はいとも簡単に私たちを救いあげたり、絶望の淵に突き落としたりする。


私自身も、若気の至りで自意識に満ちた言葉を振りかざし、身近な人を翻弄していた頃とは違って、素朴だけれど洗練されていて、それでいて温かみのあるような、そんな言葉の使い手になりたいと最近は切に願う。それは美辞麗句を書き連ねることとも異なっているから、とても難しい。


そんな優しさと美しさを手に入れたい。とりあえずは、言葉の次元から。